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テレビ番組

おーい、聴こえますか? 被爆75年・ヒロシマから

番組ID
215719
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
放送日時
2020年08月06日(木)10:35~11:30
時間(分)
50
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
放送局
中国放送(RCC)
製作者
中国放送(RCC)
制作社
中国放送(RCC)
出演者
ナレーション:斉藤とも子、朗読:本名正憲、伊達太一、伊達洋二
スタッフ
協力:重田雅彦(取材)、撮影:岡茂幸男、CA:田中諭、編集:正路周子、選曲:長原裕三、EED:上野徹、MA:草田智、デザイン:加藤奈緒、ディレクター:平尾直政、プロデューサー:城雅治
概要
アメリカが1945年に広島と長崎に投下した原子爆弾は、その年のうちに少なくとも21万人以上の命を奪った。生き残った人も原爆の放射能に傷つけられ、死の恐怖の中で生き続けることを強いられた。さらに、被爆者たちに情報不足からくる偏見と差別という刃を突き付けたのは、身近な日本人だった。横浜市に暮らす原爆小頭症の被爆者、中井新一さん(74歳)は、母の胎内で強力な放射線を浴び、生まれながらに重い知的障害がある。言葉を交わすことは難しく、簡単な会話しかできない。広島を離れ、苦しい戦後を生きる2人の兄妹は、今も「世間の目」に苦しみ続けている。安芸高田市の寺尾文尚さんも、母の胎内で被爆した。あの日母が爆心地の近くにいたら、自分も原爆小頭症の人と同じ境遇にあったかもしれない、という思いから、被爆70年の年に原爆小頭症被爆者と家族の会・きのこ会への支援活動を始めた。番組では、被爆者たちがさらなる追い打ちをかけられてきた現実を振り返りながら、平和の本質について考える。
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