テレビ・ラジオで放送された番組・CM4万本以上を視聴できるほか、展示やイベントを通じて放送の今と昔を学べます。 入館無料

tv
テレビ番組

ワイルドライフ オーストラリア東海岸 ネコ顔のサメ 奇妙なネジ型卵の謎に迫る!

番組ID
214604
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
放送日時
2015年11月09日(月)20:00~20:59
時間(分)
59
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
放送局
NHK
製作者
NHK
制作社
NHK、NHKエンタープライズ、日本水中映像
出演者
語り:小山径
スタッフ
協力:仲谷一宏(取材)、協力:カラム・ブラウン(取材)、テーマ音楽:中村幸代、撮影:坂田昌彦、映像技術:遠藤健介、音声:齋藤高広、音響効果:清水啓行、CG:宮坂浩、編集:飯田直美、ディレクター:貞末彰子、制作統括:伊豆浩、制作統括:奥村康一
概要
オーストラリア・シドニー近郊の湾の砂地に200匹を超えるサメが集結する。そのサメは、愛嬌たっぷりの不思議な顔をしているオーストラリアの固有種、ポートジャクソンネコザメだ。世界に500種以上いるサメの内、卵を産むサメは非常に少数派である。しかもその卵の形は“巨大なネジ”のような美しいらせん型をしている。今回、謎に包まれた、ポートジャクソンネコザメ産卵の瞬間を捉えた。卵を観察すると、次々とやってくる天敵から幼い命を守る驚きの秘密が見えてくる。ネコザメの知られざる生態に迫る。

同じ年代の公開番組

メ~テレドキュメント 奪還 「英雄」の妻 佐々木敦子の70年

2015年5月、愛知県体育館で「ピンボン外交記念モニュメント」の除幕式があった。モニュメントに書かれたピンポン外交の説明文に、荘則棟の名前はない。そのことを知った佐々木敦子さんは怒りを露にした。建国間もない中国に夢と希望をもたらした荘則棟と、妻・敦子さんの半生を追ったドキュメンタリー。◆敦子さんは1944年に当時の満州で生まれた。そして、終戦後も獣医だった父親の研究のために家族で中国に残ることになり、未開の中国西域に移り住んだ。その後、父親が亡くなり、敦子さんは22歳で初めて日本で暮らすことになる。しかし、敦子さんは祖国での暮らしに馴染めなかった。そんな時に、名古屋で「世界卓球選手権大会」が開かれた。中国選手が参加することがわかり、敦子さんは名古屋へと向かった。選手のいるホテルを訪ね、たまたま応対したのが荘則棟だった。荘はのちにスボーツ大臣にまでなったが、中国の指導者、毛沢東が亡くなり、荘は「四人組の協力者」と見なされて4年間監禁され、その後、地方に追放された。敦子さんは荘の境遇を知り、北京で再会。荘を救おうとし、いつしか結婚を望むようになった。しかし当初、中国政府は2人の結婚を認めなかった。やがて結婚が認められて、2人は北京で20年以上幸せに暮らす。そして、2013年に荘則棟がガンで亡くなった。中国当局はかつての「英雄」の葬儀を禁ずると告げてきた。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
HBC報道スペシャル 老いの漂流 ~600万人の孤独~

経済的に困窮する単身高齢者が急増している。徘徊中に保護された80代女性を通じ、行き場なき高齢者と超高齢社会の現実を見つめる。「600万人の孤独」(2015年5月放送)を再構成・追加取材した番組。◆有料老人ホームで暮らす85歳の女性。単身生活を送っていたが、他人の家に上がりこみ保護された。身寄りのない女性の部屋はゴミであふれ、施設入所を勧められていても拒んでいた。保護をきっかけに、市は「自立生活は困難」と判断。認知症も判明し、有料老人ホームでの生活が始まったが、利用料の値上がりで、年金と生活保護だけでの支払いは難しく費用の安い施設へと移ることになった。しかし、そこは自治体への届け出なしに運営されている、いわゆる「無届け老人ホーム」。国は高齢者の安全確保のため、有料老人ホームの運営者に自治体への届け出を求めているが、設置条件などを満たすにはコストがかかるため、無届けのままの施設が多い。単身高齢者は全国に600万人。その4割以上が、月の年金収入が10万円にも満たない。介護が必要になっても、頼る相手も経済的な余裕もない、低所得の高齢者が急増。外部の監視が届きにくいと問題視されながらも、費用の安さから無届け施設はいまや「超高齢社会」を支える存在になっている。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
KNBふるさとスペシャル 沈黙の70年 富山大空襲と孤児たちの戦後

「戦争孤児」。戦争が理由で孤児になった20歳未満の人の総称だ。昭和23年2月、当時の厚生省が実施した「全国孤児一斉調査」。その結果、第二次世界大戦による戦争孤児は12万3千人余り、富山県内にも427人いることがわかった。しかし、その事実が明らかにされたのは30年余り後のことだった。◆昭和20年8月2日未明の富山大空襲。米軍のB29が富山市に落とした焼夷弾は56万発以上。死者は約3千人(推計)。米軍が爆撃目標にした市街地破壊率は99.5%と、空襲に遭った日本の都市の中では最も大きな被害を受け、多くの子どもたちが孤児となった。長野県で暮らしている藻谷研介さんもその1人だ。焼かれた富山市の実家跡地や一晩身を置いた松川を息子らとともに訪ね、記憶を語り継いだ。藻谷さんは戦後、縁戚や姉の嫁ぎ先などを転々とし山口県へ。「振り返れば家族再建の70年だった」と振り返る。◆富山市郊外の児童養護施設「ルンビニ園」。昭和22年、戦争孤児を寺に保護したのがその始まりだ。卒園生の坂口勝久さん(北海道在住)は小田原空襲の戦争孤児。ルンビニ園の理事長・恒田仙英さんに会うため、富山市を訪れた。目的は、同窓会作りだ。同じく孤児で、園時代の旧友・鮫島一さんと共に、県内在住の卒園生を訪ねるが…。◆焼け跡にたたずむ子どもたち。そんな孤児たちに国はどのような救いの手を差し伸べてきたのか。戦後補償に詳しい立教大学の前田一男教授は「敗戦で国家の戦争は終わったが、孤児が生きるための戦いはそこから始まった」と語る。戦争孤児の戦後70年の人生を見つめることで、日本が築き守ってきた「平和」を改めて考える。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
イチスペ! 嶌田さん 八河谷で幸せ見つかりましたか?

山に囲まれた鳥取県智頭町。その山あいに19世帯38人がひっそりと暮らす八河谷(やこうだに)集落がある。ほとんどが一人暮らしのお年寄りという限界集落だ。そこへ嶌田さん一家が、愛媛県の市街地から越してきた。夫婦と子どもで移住を決めた一番の理由は、奥さんと5歳の息子の食物アレルギー。ご主人は車のエンジニアとして働いていたが、今は自分で農薬や肥料を使わず野菜を作り、家族に食べさせ、農業で生計を立てることが目標だ。◆愛媛の街中と八河谷の大きな違いは、人のつながりがあるところ。野菜をお裾分けしてもらったと思ったら、今度は嶌田さんが頼られる番。お風呂場の電気を交換して欲しい、車の調子を見て欲しい…と、集落のお年寄りから頼まれることはしょっちゅうだ。嶌田さんを「息子のよう」と頼りにしてくれている。◆しかし、肝心の農業は失敗続きで、貯金もほとんど底をついてしまった。嶌田さん一家の現金収入は多くない。でも、一家は幸せそうだ。会社員時代は必死に働いて生活に困らないくらいのお金をもらっても、満たされないものがあった。でも今は「隙間だらけの家を直して、暖かく暮らせるのが幸せ」「みんなでご飯を食べるのが幸せ」。不便な山奥で決して裕福ではない暮らしを、なぜ幸せだと感じるのか。嶌田さん一家の八河谷での3年間を通して、幸せの1つの形を描く。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
ひろしま百景 ~被爆70年・奇跡の街~ 人間の絆 “Human Bondage” (英語字幕版)

原爆投下から70年。広島に残されている歴史資料(写真・被爆手記・被爆絵画)や当時の映像資料を使いながら、奇跡の街の復旧・復興を紹介するミニ番組シリーズ。未曾有の惨禍と恐怖の中、我々の想像をはるかに超える力を発揮した人々の姿を伝える。◆原爆投下で、市中銀行(芸備・住友・安田・帝国・三和・興銀・勧銀・農中・商中・日本貯蓄・三菱・庶民金庫)は、壊滅状態となった。爆心地から約380mの近距離にあった日本銀行広島支店も、甚大な被害を受けたが、地下金庫は無事だった。「罹災市民のためにも、何とか早く営業しなければ…」。8日には、支店内を貸し店舗として12の銀行が共同で営業を再開。「常に預金者に不安を与えてはならぬ、早く処理してあげよ…」(当時日本銀行広島支店・吉川智慧丸支店長)。殆どが、通帳や印鑑がない者ばかりで、取り扱いは困難を極めたが、各銀行とも力を合わせて臨機応変にがんばった。銀行の再開は、市民の復旧意欲を沸き上がらせる最初のスタートとなった。(英語字幕版)


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組

Copyright Broadcast Programming Center of Japan.