テレビ・ラジオで放送された番組・CM4万本以上を視聴できるほか、展示やイベントを通じて放送の今と昔を学べます。 入館無料

tv
テレビ番組

日本遺産〔1〕 海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群(福井県) / 鯨とともに生きる(和歌山県)

番組ID
212047
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
放送日時
2016年11月13日(日)09:30~10:00
時間(分)
29
ジャンル
school
教育・教養
cinematic_blur
ドキュメンタリー
放送局
BS-TBS
製作者
TBSビジョン
制作社
BS-TBS、TBSビジョン
出演者
ナレーション:草刈正雄
スタッフ
取材:石渡哲也、取材:岡田竜宙、取材:田口亮、撮影:矢口信男、撮影:森威宏、撮影:橋本俊令、撮影:河野英輔、VE:小倉正巳、VE:高橋圭介、VE:宮下由子、編集:福栄臣朗、演出:河野英輔、撮影:柏原聡、撮影:柏原孝史、撮影:宮田孝、演出:八巻尚人、プロデューサー:風間純子、構成:柴崎明久、構成:河野英輔、テーマ音楽:中野香梨、音響効果:牛腸正二郎、タイトルロゴ:北村卓也、CG:内藤秀一、編集:鈴木裕樹、編集:土田真那斗、ミキサー:中村和弘、HP:清水さやか、HP:北村卓也、HP:小川槙子、AP:村上浩子、プロデューサー:澤田智幸、プロデューサー:松井和彦、プロデューサー:岡尾昌幸、プロデューサー:大浦剛、チーフプロデューサー:河野英輔、総合演出:河野英輔、制作統括:菅谷敬、企画:西崎裕文
概要
日本各地の有形無形の文化財を歴史的ストーリーで結び合わせ、文化庁が認定した「日本遺産」を各回2件ずつ紹介し、今まで知っているようで知らなかった日本を美しく描き出す。(シーズン1:2016年11月13日~2017年1月29日放送、全11回)◆第1回。前編:「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 ~御食国(みけつくに)若狭と鯖街道~」。古来若狭は、朝廷に食材を献上する地方、御食国だった。鯖やぐじなどの豊富な魚介類などが京に届けられ、日本海と京を最短で結ぶその運搬の道は“鯖街道”とも呼ばれる。反対に都からは中央の様々な文化・風習が伝わった。若狭地方だけに残る、都の文化の痕跡をたどる。◆後編:「鯨とともに生きる」。鯨は日本人にとって信仰の対象となる特別な存在であった。人々は、時折浜辺に打ち上げられた鯨を食料や道具の素材などに利用していたが、やがて生活を安定させるため、400年ほど前に捕鯨に乗り出した。捕鯨の長い歴史を持つこの地域では捕鯨の面影を残す旧跡が町中や周辺に点在し、鯨にまつわる祭りや伝統芸能、食文化が今も受け継がれている。

同じ年代の公開番組

日本のチカラ ブナから生まれる曲線美 ~「BUNACO」津軽から世界へ

世界自然遺産「白神山地」のある青森県はブナの蓄積量日本一。しかし、ブナは古くから使い道のない木とされてきた。ブナは水分を多く含み、乾燥させて使っても狂いが大きい木なのだ。青森に豊富にあるブナを活用するために生まれた技術が「ブナコ」。厚さ1ミリのブナ板を細長いテープ状にして使うことで、弱点を克服している。テープ状のブナ材を隙間なくコイルのように巻きつけ、一層ずつずらしていって、ボウルの形状に成型。型作りに使うのは湯呑茶碗。まさに職人技。◆創業から食器のみの商品ラインナップで展開していたブナコ株式会社は、1998年頃売り上げが激減、倒産の危機に。なんとか売れる商品をと模索をしていると、社長の倉田昌直さんがブナコでランプを作ることをひらめいた。さらに、ブナ材は光を当てると他の木材より赤く光ることに気がついた。ランプは人気となり、業績はV字回復する。◆2015年度、ブナコ株式会社には2人の新人が入社。ベテランのもとで一生懸命学んでいる。1人はモノづくりの夢を追い、1人は家族を支えるために手仕事の道へと転職をしてきた。そんな折、ブナコはパリで行われる欧州最大級のインテリア&デザイン見本市「メゾン・エ・オブジェ」への出展が決まる。新作のランプの成型に抜擢されたのは新人。難しい形状に悩みながらもなんとか完成させる。完成したランプを見た社長は…。青森で生まれて、青森から発信され続けるブナコに迫る。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
メ~テレドキュメント それでも、働く ~ALSになったJリーグ社長~

経営難から存続の危機に陥っていたFC岐阜。新しい親会社であるJトラストから派遣されたのが当時Jリーグの社長として最年少35歳の恩田聖敬だった。恩田は岐阜県山県市出身。京大の宇宙航空工学科を卒業後、サービス業に興味を抱きエンターテインメント業界に入った。20代でグループ企業の取締役に抜擢された恩田に、Jトラスト藤澤社長はFC岐阜の舵取りを任せた。「出来ないと思うことに取り組むのが仕事」と恩田は言う。サッカービジネスに、もっとエンターテインメントの要素を持ち込むことでFC岐阜の躍進を図ろうと試みた。しかし就任の年、手足に違和感を覚え、精密検査の結果、難病ALSと判明する。恩田は2年目のシーズンになって、発症を公開した。日を追うごとに悪化していく病状をカメラは捉える。それでも社長であることを貫こうとする恩田。その姿はファンや同僚たちに、どう映ったのだろうか。体が動かなくなってもスタジアムに通い続けた恩田に社長辞任を促したのはほかでもない、恩田を指名した藤澤社長だった。不完全燃焼でFC岐阜社長を退いた恩田。彼が「次の道」として選んだのは、新会社の設立だった。


cinematic_blurドキュメンタリーdirections_bikeスポーツtvテレビ番組