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テレビ番組

メ~テレドキュメント 奪還 「英雄」の妻 佐々木敦子の70年

番組ID
210429
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放送日時
2015年05月25日(月)02:14~03:19
時間(分)
62
ジャンル
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ドキュメンタリー
放送局
名古屋テレビ放送(メ~テレ)
製作者
名古屋テレビ放送(メ~テレ)
制作社
名古屋テレビ放送(メ~テレ)
出演者
語り:柄本明、ナレーション:深津麻弓
スタッフ
撮影:浅井大輔、撮影:高軍、音声:大泉真一、音声:桑原健、編集:世古和弘、編集:藤田憲史、MA:河合亮輔、選曲:堀敦詞、ディレクター:村瀬史憲、プロデューサー:城田達康、制作統括:平岩潤
概要
2015年5月、愛知県体育館で「ピンボン外交記念モニュメント」の除幕式があった。モニュメントに書かれたピンポン外交の説明文に、荘則棟の名前はない。そのことを知った佐々木敦子さんは怒りを露にした。建国間もない中国に夢と希望をもたらした荘則棟と、妻・敦子さんの半生を追ったドキュメンタリー。◆敦子さんは1944年に当時の満州で生まれた。そして、終戦後も獣医だった父親の研究のために家族で中国に残ることになり、未開の中国西域に移り住んだ。その後、父親が亡くなり、敦子さんは22歳で初めて日本で暮らすことになる。しかし、敦子さんは祖国での暮らしに馴染めなかった。そんな時に、名古屋で「世界卓球選手権大会」が開かれた。中国選手が参加することがわかり、敦子さんは名古屋へと向かった。選手のいるホテルを訪ね、たまたま応対したのが荘則棟だった。荘はのちにスボーツ大臣にまでなったが、中国の指導者、毛沢東が亡くなり、荘は「四人組の協力者」と見なされて4年間監禁され、その後、地方に追放された。敦子さんは荘の境遇を知り、北京で再会。荘を救おうとし、いつしか結婚を望むようになった。しかし当初、中国政府は2人の結婚を認めなかった。やがて結婚が認められて、2人は北京で20年以上幸せに暮らす。そして、2013年に荘則棟がガンで亡くなった。中国当局はかつての「英雄」の葬儀を禁ずると告げてきた。
受賞歴
日本民間放送連盟賞(第63回教養番組優秀)

同じ年代の公開番組

英雄の妻 敦子 ~激動の日中関係を生きた女の人生~ / 第29回民教協スペシャル

1971年3月、愛知県体育館で開催された「世界卓球選手権」。東西冷戦の時代、断絶していた中国とアメリカが手を取り合うきっかけとなった大会だ。荘則棟(そうそくとう)はその「ピンポン外交」の立役者。彼は世界卓球選手権を3連覇し、建国間もない中国に夢と希望をもたらした「民族の英雄」だった。◆この時に名古屋で荘則棟と出会い、後に妻となった佐々木敦子さんは、1944年に当時の満州で生まれた。獣医だった父親の研究継続のため、終戦後も家族で中国に残ることになり、未開の中国西域に移り住んだ。その後、父親が亡くなり、敦子さんは22歳で初めて日本で暮らすことになる。しかし祖国での暮らしに馴染めず、心は中国を求めていた。◆そんな時に世界卓球選手権大会が開かれた。中国代表チームの参加が報じられ、敦子さんはたまらずに名古屋へ向った。中国チームのいるホテルを訪ねた敦子さんに、たまたま応対したのが荘則棟だった。荘は「日中友好に貢献を」と言葉を掛けたという。そして敦子さんは大手商社の中国駐在員となる。荘はスポーツ大臣にまでなっていたが、毛沢東が亡くなり、それまで権力を握っていた「四人組」が失脚。荘は四人組の協力者とみなされ、4年間監禁された後、地方へ追放された。◆敦子さんは荘則棟の境遇を知り、北京で荘と再会した。そして何とか彼を救おうとし、いつしか2人は恋に落ちた。しかし中国政府は2人の結婚を認めなかった。大きな犠牲を払い結婚した2人に、20年以上は幸せな日々が続いた。しかし2013年に荘がガンで死亡。そして中国当局はかつての「英雄」の葬儀を禁ずると告げてきた。


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