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テレビ番組

よみがえる泰緬鉄道 96歳 元小隊長の追憶

番組ID
209530
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放送日時
2014年05月24日(土)10:40~11:40
時間(分)
50
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
放送局
テレビ西日本(TNC)
製作者
テレビ西日本(TNC)
制作社
テレビ西日本(TNC)
出演者
語り:齋藤豊治
スタッフ
撮影:上村健一郎、音声:池上きよみ、編集:渡辺幸太郎、編集:宮原優介、MA:太田雅二、ディレクター:山本眸古、プロデューサー:正木伸一郎
概要
国家に命じられて鉄道建設に携わった故に戦争犯罪者となった日本人と、鉄道建設に動員されて命までも奪われた連合軍捕虜や現地労働者の記録。◆開業以来、無事故を誇る新幹線に代表される「正確・安全」な日本の鉄道技術。近年活発となった鉄道の海外進出は、一般にはイギリスの高速鉄道への車両輸出や、台湾への新幹線輸出以降のことのように思われている。しかし、その遥か以前、日本の鉄道技術はアジアに進出していた。その典型が70年前にタイとミャンマーを結ぶために造られた「泰緬鉄道」だ。◆番組では、この泰緬鉄道の建設に携わり、それ故に戦争犯罪者としていったんは終身刑の判決を受け10年もの間服役し、出所後は旧国鉄社員として戦後の復興に加わった樽本重治さん(96歳)の半生を辿ることにより、「戦争は人間に何を強いるか」そして「あの時の日本人」を探る。

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