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テレビ番組

NNNドキュメント’11 3・11大震災シリーズ15 つなぐ。命を未来へ… ~医師たちの6か月~

番組ID
206970
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放送日時
2011年09月12日(月)00:50~01:45
時間(分)
46
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
ondemand_video
報道・時事
放送局
日本テレビ放送網(NTV)
製作者
日本テレビ放送網(NTV)、読売テレビ放送/讀賣テレビ放送(YTV)
制作社
日本テレビ放送網(NTV)、読売テレビ放送/讀賣テレビ放送(YTV)
出演者
ナレーター:槇大輔
スタッフ
題字:柿沼康二、構成:千野克彦、撮影:松田康弘、撮影:福場清正、音声:小林保、音声:青野寿俊、編集:田中理絵、編集:望月公介、EED:近藤雅明、ミキサー:浜口崇、音響効果:番匠祐司、広報:永井晶子、デスク:小野裕子、デスク:須田康代、ディレクター:澤田享平、ディレクター:上明戸幸隆、ディレクター:黒住周作、ディレクター:福澤真由美、プロデューサー:加藤就一、プロデューサー:山川友基、プロデューサー:日笠昭彦、チーフプロデューサー:谷原和憲、チーフプロデューサー:坂泰知
概要
東日本大震災の被災地は高齢化が進み、元々医療過疎といわれる地域だった。多くの医療機関が損壊した中、被害を免れた病院を拠点に、発生直後から医師、看護師たちの不眠不休の戦いが始まった。あの2011年3月11日から半年、復興の歩みは遅く、医療の問題も深刻化している。岩手・宮古市田老地区のたった一人の医師は自身も被災しながら、避難所に仮の診療所を開設。残った薬をかき集め、診療を続けてきた。一方、被災した宮城・石巻市立病院では、いまだ復興計画が立たない。仮設の診療所に通ってくる患者を避難所や仮設住宅の近くで再開した個人医院に紹介することに腐心している。そして福島県では、原発事故が周辺住民の医療に深刻な影を落としている。番組では、本格復興に向け不可欠な被災地医療の将来を考える。
受賞歴
ギャラクシー賞(第49回報道活動部門選奨)

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テレメンタリー2011 ベースボール イン カウラ

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