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テレビ番組

ダイドードリンコスペシャル よみがえれ!海のまち ~復興への願い・塩竈みなと祭~

番組ID
206365
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
放送日時
2011年08月06日(土)16:00~16:55
時間(分)
49
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
放送局
東日本放送(KHB)
製作者
東日本放送(KHB)
制作社
東日本放送(KHB)、東北朝日プロダクション
出演者
ナレーション:岩佐絵理吉村作治
スタッフ
構成:きむらたろう、タイトル:高橋泰行、タイトル:村上大介、MA:大友辰徳、撮影:松木和年、撮影:小泉聖二、撮影:冨塚光明、撮影:鈴木相、撮影:水上幸也、音声:川越広之、音声:八鍬健太郎、ディレクター:藤田直樹、ディレクター:佐藤正人、ディレクター:弓削愛、ディレクター:佐藤まゆみ、プロデューサー:五十嵐淳一
概要
宮城県塩竈市の「塩竈みなと祭」は日本三大港祭りの一つとされ、鹽竈神社の神輿の海上渡御や花火大会などが行われる華やかな祭りだ。2011年も7月「海の日」に開催する準備が進められていた。しかし、3月11日に発生した東日本大震災による津波で、塩竈市は大きな被害を受けた。祭りの中心となる人々の多くも被災した。この状況で祭りを行うべきか否か…。葛藤の末、それでも開催を決定した背景には、「市民に元気を、そして前に進むきっかけになって欲しい」という強い願いがあった。被災地から発信される元気は、失意の中にある東日本の人々に復興へのエネルギーを送れるに違いない。祭りが持つ底力を見せるべく、塩竃の男たちは神輿を担ぐ。

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太平洋戦争の終戦から66年。人口の4分の3が戦争を知らない世代となり、戦争の記憶を伝えていくことが難しい時代となった。戦争を直接語れる人が少なくなってくるなかで、兵士たちの「手紙」は彼らの息遣いを感じることのできる貴重なものだ。◆戦時中、戦場の兵士と故郷・鹿児島を結ぶ「軍事郵便」があった。検閲があるため戦況に関わることは書けないが、そこには教科書には書いていない兵士一人一人の戦いが記されていた。湧水町に暮らす女性はある日、たんすの中から父が戦地から送った軍事郵便を見つけた。その数、227通。故郷に残した家族を案じる内容や、婚約者への思いなどが綴られた文面。それは戦地と銃後をつなぐ「命の手紙」である。◆戦争の時代の空気がリアルに記され、貴重な事実が潜んでいる軍事郵便は、歴史資料としての価値が見直されている。専修大学の新井勝紘教授は鹿児島大学の西村明准教授らと、軍事郵便の掘り起こしにあたっている。所蔵する軍事郵便はおよそ1万通。新井教授のゼミではケータイ世代の若者が軍事郵便を読んでいる。若い世代にとって、教科書で学ぶ戦争はどこか現実感のないものだ。しかし軍事郵便という生の資料に触れ、等身大の兵士の存在を身近に感じることにより、戦争が現実味を帯びたカタチで見えてくるのだという。◆戦争の真実をどう自分たちの記憶として受け継ぎ、伝えていくか。その問いが私たちに突きつけられている。番組では、兵士が残してくれた軍事郵便が発するメッセージを伝えていく。


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