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テレビ番組

黒柳徹子のコドモノクニ ~夢を描いた芸術家たち~ 片岡鶴太郎が巡るサトウハチローの世界 僕は不良少年だった…童謡詩人が母に捧げた愛の詩

番組ID
210269
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放送日時
2015年04月15日(水)21:00~22:54
時間(分)
101
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
school
教育・教養
放送局
ビーエス朝日(BS朝日)
製作者
ビーエス朝日(BS朝日)
制作社
ビーエス朝日(BS朝日)、テレビ朝日映像
出演者
スタッフ
撮影:須田健、VE:後藤恵大、CG:おなかさとし、イラスト:おなかさとし、選曲効果:田口恭平、選曲効果:北條玄隆、AD:俵木花純、AD:野村昌彦、AD:三阪雅子、ブレーン:志村和哉、広報:田中久美香、AP:北川真紀、デスク:石井晴美、ディレクター:渡辺修、ディレクター:土屋翔、演出:山浦克洋、プロデューサー:柿崎拓哉、プロデューサー:加納満、プロデューサー:粟井誠司、プロデューサー:藤野広子
概要
大正11年から昭和19年までの22年間に287冊発刊された絵雑誌「コドモノクニ」。子どもたちの情操を育てるため、きら星のごとき芸術家たちがこぞって作品を掲載していた。この伝説の絵雑誌に作品を描いた芸術家の人生を“旅人”がたどる番組。◆初回スペシャルの旅人は、画家・書家としても活躍するタレント・片岡鶴太郎。2万編を超える詩作を残した童謡詩人・サトウハチローの世界をたどる。「ちいさい秋みつけた」「うれしいひなまつり」など、今も歌い継がれる童謡の作詞にとどまらず、終戦直後の日本人を元気づけた「りんごの唄」もサトウハチローが作詞したもの。黒柳徹子は交流のあったサトウハチローの印象を「こころの澄んだ詩人」と語る。◆数々の名作を残したサトウハチローだが、その足跡をたどると意外な事実が見つかる。少年時代は手の付けられない「悪童」で、更生施設があった小笠原諸島の父島で暮らした時期があったという。彼はいかにして、子どもたちに夢を与える詩人に生まれ変わったのだろうか。◆片岡鶴太郎が自身の人生を重ねながら、東京の茗荷谷、浅草、上野動物園とサトウハチローの足跡をたどる。通った小学校、大好きだったお酒、お気に入りの下町の甘味…。サトウハチロー晩年の弟子・宮中雲子さんへのインタビューからは、生涯母への思いを抱き続けた純粋な姿が浮かびあがる。◆旅を終えた旅人は、番組の最後に未来を生きる子どもたちのために作品を描く。果たして、片岡鶴太郎はどんな作品を残すのだろうか。BS朝日開局15周年特別企画。番組ナビゲーターは黒柳徹子。

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