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テレビ番組

Dr.ぜんすけ ~人情医師が残してくれたもの~

番組ID
209178
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放送日時
2014年09月24日(水)13:55~14:55
時間(分)
48
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
放送局
青森朝日放送(ABA)
製作者
青森朝日放送(ABA)
制作社
青森朝日放送(ABA)、トラストネットワーク
出演者
ナレーション:藤岡勇貴
スタッフ
撮影:成田照夫、撮影:藤岡勇貴、CA:斉藤直哉、編集:齋藤尚之、タイトル:富樫俊文、音声:佐々木和也、MIX:佐々木和也、音響効果:小関孝宏、ディレクター:藤岡勇貴、プロデューサー:帷子聖修、プロデューサー:原田覚
概要
青森の診療所でへき地医療に力を尽くし、医師としての人生を全うした柳善佑さん。2014年8月14日未明、がんのため72歳でこの世を去った。柳医師が「青森の神様になったる!」と誓いを立てたのは11年前。地域医療に携わる夢を実現するため、61歳の時、青森県深浦町の関診療所にやってきた。◆青森に来る前、柳医師は大阪の公立病院で外科部長を務めていた。消化器がんや肺がんなど、外科医として5千回以上の手術を担当。24時間どんな時も診てくれ、患者第一で真正面から向き合う人情医師への信頼は厚く、住民から最後の脈をとってほしいとお願いされるほどだった。◆3年半前にがんを患い、余命半年と宣告されても、体が動く限り最期まで聴診器を握り続けた柳医師。住民の命綱とも言えるへき地の診療所で10年半。柳医師が目指したへき地医療のあるべき姿とは?、若い医師たちに受け継がれた心とは?…。医師不足に喘ぐ地域医療の問題点と、へき地医療にかけた老医師の生涯を追った。
受賞歴
ギャラクシー賞(第52回奨励賞)

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