テレビ・ラジオで放送された番組・CM4万本以上を視聴できるほか、展示やイベントを通じて放送の今と昔を学べます。 入館無料

tv
テレビ番組

スイートプリキュア♪〔1〕 ニャプニャプ~!スイートプリキュア誕生ニャ♪

番組ID
216803
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
放送日時
2011年02月06日(日)08:30~09:00
時間(分)
24
ジャンル
cruelty_free
アニメーション
放送局
ABCテレビ(朝日放送)
製作者
東映アニメーション
制作社
ABCテレビ(朝日放送)、アサツーディ・ケイ、東映アニメーション、東映
出演者
スタッフ
企画:西出将之、企画:三宅将典、企画:関弘美、プロデューサー:松下洋幸、プロデューサー:佐々木礼子、プロデューサー:梅澤淳稔、原作:東堂いづみ、漫画:上北ふたご、シリーズ構成:大野敏哉、音楽:高梨康治、主題歌:工藤真由、主題歌:池田彩、制作担当:額賀康彦、美術:増田竜太郎(デザイン)、色彩設計:佐久間ヨシ子、キャラクターデザイン:高橋晃、シリーズディレクター:境宗久、振付:前田健(エンディングテーマ)、脚本:大野敏哉、原画:高橋任治、原画:松田千織、原画:直井正博、原画:松本和志、原画:佐野陽子、原画:廣中美佳、原画:清水隆正、原画:完甘美也子、原画:原田節子、原画:田中伸昭、原画:荒川理恵、原画:高阪雅基、原画:山岡直子、原画:佐伯哲也、原画:深本泰永、原画:埜渡智幸、原画:安田陽子、原画:福本泰子、原画:大田和寛、原画:小山知洋、原画:大内智美、原画:小原広志、原画:大橋藍人、原画:直井千春、原画:稲葉仁、原画:森田岳士、原画:藤井孝博、原画:河野宏之、原画:廣野裕一、原画:石川修、原画:吉岡毅、原画:稲上晃、原画:志田直俊、原画:永島英樹、原画:赤田信人、原画:天海扶美子、原画:中瀬潤、原画:増田誠治、原画:高橋晃、背景:佐藤千恵、背景:西田渚、背景:篝ミキ、背景:渡部葉、背景:田中里緑、背景:工藤ただし、背景:岩谷沙織、背景:高橋久嘉、撮影:白鳥友和(デジタル)、撮影:松平高吉(デジタル)、撮影:金子直弘(デジタル)、撮影:福井道子(デジタル)、撮影:石川晴彦(デジタル)、撮影:寺崎光喜(デジタル)、CG:さとうえい、CG:平岡正治、CG:吉武真理子、CG:宮原直樹、CG:横谷崇、編集:麻生芳弘、録音:川崎公敬、音響効果:石野貴久、選曲:水野さやか、記録:沢井尚子、演出助手:伊藤聡伺、制作進行:八重樫逸郎、美術進行:西牧正人、仕上:村上昌裕(進行)、CG:桜井正樹、演技事務:小浜匠、宣伝:多田香奈子、美術:増田竜太郎、作画監督:小島彰、作画監督:山岡直子、作画監督:山崎展義、演出:境宗久
概要
北条響と南野奏は小さい頃から一緒の幼なじみ。そんな2人のもとに、音楽の国「メイジャーランド」からやってきた妖精ハミィが現れる。響と奏はプリキュアに変身し、伝説の楽譜に書かれている「幸福のメロディ」を狙う悪の王メフィストに立ち向かう。原作:東堂いづみ(プリキュアシリーズ第8作/2011年2月6日~2012年1月29日放送、全48回)◆音楽が溢れる加音町。この町で育った北条響と南野奏は幼なじみだが、中学校になってからはなぜか、顔を合わすとケンカばかりしていた。そんな2人のもとに、音楽の国「メイジャーランド」からやってきた妖精「ハミィ」が現れた。ハミィは伝説の楽譜に書かれている「幸福のメロディ」を「不幸のメロディ」に変えようと企む悪の王「メフェスト」から世界を守るため、2人にプリキュアに変身して欲しいと頼む。いつもは全く意見が合わない響と奏だが、2人の正義の心が1つになったとき、プリキュアに変身する。

同じ年代の公開番組

テレメンタリー2011 ベースボール イン カウラ

オーストラリアの田舎町カウラに日本から一人の中学生が留学してきた。彼が大好きなのは野球だが、学校には野球をする生徒はそれまで一人もいなかった。しかし、65年以上前、この地に野球が花開いた時期があった。◆太平洋戦争中、この町には捕虜収容所が設置され、最大で1100人の日本人捕虜が収容されていた。彼らの大きな楽しみが野球だった。バットやグローブは材木を削ったり、支給された革靴をほどいたりして手作りした。オーストラリア側の捕虜の扱いはジュネーブ条約にのっとった良好なものだった。ラインを引く石灰の代わりにメリケン粉を使ったり、魚を要求すればニュージーランドから空輸されたりもした。捕虜の間には生きる喜びが芽生えていた。◆だが、安楽な日々は突然終わりを告げる。1944年8月5日、日本人捕虜が集団脱走。ある者は機関銃に撃たれ、ある者は自ら首を吊って234人が死亡した。きっかけは些細なことだった。捕虜が増えて収容所が手狭になったため、オーストラリア側が捕虜を兵と下士官に分離することを通告したのだ。捕虜であることの屈辱を晴らす機会をうかがっていた一部の強硬派の捕虜が決起を主張する。穏健派は全員による投票を提案するが、投票の際、捕虜を動かしたのは、暴動に反対とは主張しにくい「空気」だった。◆捕虜の中でひときわ目立つ存在だった人物がいる。長くキャンプリーダーを務め、暴動の開始を告げる突撃ラッパを吹いた「南忠男」だ。事件で死亡した南は偽名だったため、長く本名や出身地は謎のままだった。しかし日豪の研究者などの調査で、1980年代になって香川県出身の海軍パイロットとわかった。彼はダーウィン空襲で被弾し、奇跡的に不時着してオーストラリアにおける日本人捕虜の第1号となっていたのだ。◆彼の墓の命日は、カウラ事件ではなく、1回目のダーウィン空襲が行われた1942年2月のままである。その他、多くの捕虜が帰国してみると戦死したことにされていた。カウラ市内の日本人墓地に眠る人の中にも、本当の命日を遺族が知らない人が他にもたくさんいるはずだ。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組