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テレビ番組

テレメンタリー2012 “3.11”を忘れない16 針路なき除染

番組ID
206391
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
放送日時
2012年01月08日(日)17:00~17:30
時間(分)
26
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
ondemand_video
報道・時事
放送局
福島放送(KFB)
製作者
福島放送(KFB)
制作社
福島放送(KFB)
出演者
ナレーター:江守徹
スタッフ
カメラ:境田晃一、カメラ:冨樫敏広、編集:伊東孝之、題字:千葉清藍、CG:山崎菜穂子、CG:森野悟、ミキサー:滝沢おさむ、音響効果:番匠祐司、プロデューサー:高橋良明、取材:安村理沙、構成:安村理沙
概要
東京電力福島第一原子力発電所から北西に約50キロ。6万5千人が暮らす福島県伊達市。警戒区域や計画的避難区域のように高い放射線量が検出される地区ではないが、市内113世帯が特定避難勧奨地点に指定されるなど、ホットスポットが点在するエリアである。◆伊達市は独自の判断により、いち早く放射性物質の除染を市内全域で始めた。除染は一定の効果をあげたが、放射性物質を含む除染廃棄物の行き場が決まらない。住民に仮置き場の提供を求める市と、困惑する住民。話し合いが平行線をたどる中、仮置きした廃棄物を移し一時保管する中間貯蔵施設について、国は「福島県内に作りたい」という意向を示した。その先の最終処分場は候補地すら決まっていない。◆除染しても放射性物質が減るわけではなく、ゴミとして一箇所に移動するだけだ。廃棄物の行き場が決められぬままで進められる除染。最終処分場を決めずに進めてきた従来の原子力政策と同じ構図がそこにはある。番組はその問題点を訴える。

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