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テレビ番組

証言 八十年目の真実 ~長島そしてノルウェー~

番組ID
205625
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放送日時
2010年11月28日(日)14:00~14:59
時間(分)
54
ジャンル
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ドキュメンタリー
放送局
RSK山陽放送(RSK)
製作者
RSK山陽放送(RSK)
制作社
RSK山陽放送(RSK)
出演者
語り:吉永小百合、ナレーション:石田好伸
スタッフ
プロデューサー:桑田茂、撮影:宮崎賢、編集:宮崎賢、取材:山下晴海
概要
岡山県瀬戸内市にあるハンセン病療養施設長島愛生園の歴史資料館には、40人の入所者の体験を記録した証言テープがある。このテープを作ったのは同じ愛生園の入所者、島田等さんだ。80年前、日本はハンセン病患者の完全隔離を実施し、患者同士の結婚の際は子孫を作らせない「断種」を行った。島田さんが残した70時間に及ぶ証言のテープは、これらの実態を赤裸々に語っている。◆日本がハンセン病の隔離政策をとった1930年当時、世界は既にハンセン病患者の自宅療養と社会復帰を前提とした治療に入っていた。その先進地ノルウェーのベルゲンは、病気の元となる「らい菌」を発見したアルマウェルハンセン医師の研究ベースでもある。ここの療養施設は街の中にあった。療養所は貧しくて自宅療養の不可能な患者の一時収容所であり、所内の教会には、患者の家族が残した祈りの落書きも有る。◆番組では、世界の趨勢に反して日本が行った隔離の起源と患者の苦悩を辿る。

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