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テレビ番組

震災16年特別番組 忘れないあの日 刻まれた震災

番組ID
205616
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
放送日時
2011年01月16日(日)19:00~19:55
時間(分)
48
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
ondemand_video
報道・時事
放送局
サンテレビジョン(SUN)
製作者
サンテレビジョン(SUN)
制作社
サンテレビジョン(SUN)
出演者
ナビゲーター:小浜英博
スタッフ
撮影:平田裕司、撮影:田中勝己、編集:山口竜治、タイトル:苅谷圭、ディレクター:平山容子、ディレクター:若木聖子、プロデューサー:天津悟
概要
6000人を超える犠牲者を出した阪神・淡路大震災。被災地の各地には、「1.17希望の灯り」や「神戸の壁」など、犠牲者を追悼し、被災体験を語り継ぐためのモニュメントが建てられている。被害が大きかった地域の公園や学校などさまざまな場所に、さまざまな思いで建てられたモニュメントたち。番組では、サンテレビ報道部が地域ごとに取材し、ニュース番組内で地道に紹介を続けているモニュメントから十数カ所をピックアップし、再編集したVTR構成で、被災地の人々の思いを伝える。
放送ライブラリー以外で視聴可能な施設

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テレメンタリー2011 ベースボール イン カウラ

オーストラリアの田舎町カウラに日本から一人の中学生が留学してきた。彼が大好きなのは野球だが、学校には野球をする生徒はそれまで一人もいなかった。しかし、65年以上前、この地に野球が花開いた時期があった。◆太平洋戦争中、この町には捕虜収容所が設置され、最大で1100人の日本人捕虜が収容されていた。彼らの大きな楽しみが野球だった。バットやグローブは材木を削ったり、支給された革靴をほどいたりして手作りした。オーストラリア側の捕虜の扱いはジュネーブ条約にのっとった良好なものだった。ラインを引く石灰の代わりにメリケン粉を使ったり、魚を要求すればニュージーランドから空輸されたりもした。捕虜の間には生きる喜びが芽生えていた。◆だが、安楽な日々は突然終わりを告げる。1944年8月5日、日本人捕虜が集団脱走。ある者は機関銃に撃たれ、ある者は自ら首を吊って234人が死亡した。きっかけは些細なことだった。捕虜が増えて収容所が手狭になったため、オーストラリア側が捕虜を兵と下士官に分離することを通告したのだ。捕虜であることの屈辱を晴らす機会をうかがっていた一部の強硬派の捕虜が決起を主張する。穏健派は全員による投票を提案するが、投票の際、捕虜を動かしたのは、暴動に反対とは主張しにくい「空気」だった。◆捕虜の中でひときわ目立つ存在だった人物がいる。長くキャンプリーダーを務め、暴動の開始を告げる突撃ラッパを吹いた「南忠男」だ。事件で死亡した南は偽名だったため、長く本名や出身地は謎のままだった。しかし日豪の研究者などの調査で、1980年代になって香川県出身の海軍パイロットとわかった。彼はダーウィン空襲で被弾し、奇跡的に不時着してオーストラリアにおける日本人捕虜の第1号となっていたのだ。◆彼の墓の命日は、カウラ事件ではなく、1回目のダーウィン空襲が行われた1942年2月のままである。その他、多くの捕虜が帰国してみると戦死したことにされていた。カウラ市内の日本人墓地に眠る人の中にも、本当の命日を遺族が知らない人が他にもたくさんいるはずだ。


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