テレビ・ラジオで放送された番組・CM4万本以上を視聴できるほか、展示やイベントを通じて放送の今と昔を学べます。 入館無料

tv
テレビ番組

NNNドキュメント’10 百合の贈りもの ~阪神大震災15年の軌跡~

番組ID
204910
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
放送日時
2010年01月18日(月)00:50~01:20
時間(分)
26
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
放送局
読売テレビ放送/讀賣テレビ放送(YTV)
製作者
読売テレビ放送/讀賣テレビ放送(YTV)
制作社
読売テレビ放送/讀賣テレビ放送(YTV)
出演者
ナレーター:横須賀ゆきの
スタッフ
撮影:三井進矢、編集:秋山進吾、EED:中澤丈、音響効果:鈴木宗寿、MA:堀内孝太郎、ディレクター:堀川雅子、プロデューサー:坂泰知
概要
兵庫県西宮市に住む中北富代さんは、15年前の阪神大震災で当時14歳の長女・百合さんを亡くした。木造家屋が倒壊し、百合さんは家族の中でただ一人犠牲になった。父親の幸さんは建築家。自らの職業ゆえ、娘の死を十字架として背負い、生きてきた。この15年、自然と共存できる家づくりを続けている。◆2009年1月17日、中北さんは震災14年目の朝を特別な思いで迎えた。娘が生きた14年、娘を失ってからの14年…。その節目の年を大切に生きたいと考え、難関を潜り抜け神戸市外国語大学に入学した。◆中北さんが中国語に関心をもったきっかけは、“二胡”という中国の伝統楽器との出会いにさかのぼる。震災直後、生きるのがつらいと感じたとき、二胡の音色に心から癒され涙が出た。中国語や二胡の練習を続ける中北さん。常に支えてきたのは、亡き娘・百合さんの存在だった。困難に直面しても、娘が「かあさん、がんばって」と励ましてくれているのは気がするのだという。◆震災で絶望の淵をさまよった中北さんが、15年間を歩き続けられたもうひとつの理由。それは百合さんにまつわる多くの人との絆だ。岡田章子さんは震災後に「子を亡くした母親の会」で出会った。岡田さんは病気で12歳の長男を亡くした。震災と病気…子を亡くした理由は違うが、共通するのは「もう二度とあの子たちに出会えないこと」だと痛みを分かち合う。◆震災の後、百合さんと「ともに」歩んできた15年の道のり。中北さんの生き方は、人生の困難に直面した後、どう生きるべきかという一つの“あり方”を教えてくれる。◆NNNドキュメント40年企画。
放送ライブラリー以外で視聴可能な施設

同じ年代の公開番組

情熱大陸 ピアニスト アリス紗良・オット

長い黒髪に抜けるような白い肌を持つアリス=紗良(サラ)・オット21歳。ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれた彼女は4歳でピアニストになる決意をし、5歳で最初のコンクール入賞。7歳でドイツの名門「ドイツ連邦青少年音楽コンクール」で初優勝を飾る。その後もヨーロッパの名だたるコンクールで優勝を果たすなどの活躍を経て、2008年、名門レーベルのドイツ・グラモフォンからデビューした。◆ミュンヘン在住だが両親の意向で長く日本語学校に通った為、日本語には不自由せず、近年日本での活動の機会も増えた。スラリとした長身と爽やかな笑顔が印象的で、自らの性格を「じゃじゃ馬」と言うアリス。しかしひとたびピアノに向うとその表情は一変、何かに取り付かれたように鍵盤に向う姿は圧巻だ。彼女の演奏は「思い切りの良い強靭なタッチ、華麗なテクニック。そして表現者としての強い意志が感じられる個性的な演奏」と各方面から絶賛されている。◆そんなアリスの幼い頃からの夢は「いつかミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団と共演したい」というもの。ミュンヘン・フィルは100年の歴史を持つ世界有数のオーケストラ。番組では2009年秋、彼女がついにその夢を果たす瞬間に密着する。演奏する曲はチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第一番」。これまでの演奏会で50回近く弾きこんでいる「自信の一曲」だ。オーケストラとの共演に於いて最も大切なプロセスは、指揮者と2人っきりでテンポやリズム、曲の解釈や表現方法について「対話」を進めていく「音探し」という作業だという。アリス曰く“企業秘密”というこのプロセスを取材し、彼女の演奏の秘密に迫る。◆「“学ぶ力”というのは、人間が神から与えられた一番の宝だと思う」と語るアリス。ミュンヘン・フィルとの夢の舞台で、果たして彼女はどんな音色を響かせるのか。そしてその先に見えたものとは。21歳新進気鋭の女流ピアニストの「今」を見つめる。


cinematic_blurドキュメンタリーmusic_note音楽tvテレビ番組
ザ・ドキュメンタリー 人生の教室 ~カンボジア日本人教師~

カンボジアで日本語を教えている檜尾睦先生は70歳。日本語教師になったきっかけは、岡山の公立中学の校長時代にネパールの学校を訪問したこと。貧しい中、懸命に勉強する子どもたちの姿に心を打たれた。彼女は日本語教師の資格を取り、定年後の2000年にNGOの募集記事を見て迷わず応募した。無給・生活費持ち出しを承知の上でのことだった。◆初めて踏み入れた教室には、27人の子どもた待っていた。クメール語の分からない教師と、日本語・英語の分からない子ども。先生はかまわず日本語で日本語を教えた。あいさつのできない子、宿題をしてこなかった子には厳しくしかった。その一方で欠席した子どもを気にし、授業の合い間を縫っては子どもの家を訪れ、子どもの様子を聞き、両親に日本語を学ぶ意味を説き続けた。◆カンボジアで暮らして10年。日本語を身につけ、ホテルマンや観光ガイドなどとして自立する教え子も生まれ、先生の出身地・岡山では、教え子を留学生として受け入れてくれる高校も出来た。第二の人生の足跡を着実に残した彼女。「子どもを助けるつもりが、逆に助けられていた」と振り返る。◆最初の教え子たちが、彼女を悲しませ帰国させないよう、言葉の意味は分からなくても彼女の発音通りにオウム返しするよう、打ち合わせていたことを、彼女は後年知ったという。教師として子どもたちを育てる舞台を日本からカンボジアに移した今も、その笑顔はきらめき続けている。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組

Copyright Broadcast Programming Center of Japan.