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ニュース映画

毎日世界ニュース 395 あれから五年 第五福龍丸

番組ID
N00725
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
上映日
1959年03月04日(水)
時間(秒)
160
カテゴリ
社会
概要
静岡県の焼津港は、今日も朝から威勢のいいマグロの水揚げで活況を呈している。かつての第五福竜丸は練習船として若人の夢をはぐくんでいる。昭和29年(1954年)3月1日、ビキニ水域でアメリカの水爆実験による死の灰をかぶり、久保山愛吉さんが初の犠牲者となってから5年、焼津市では外国代表も加わって原水爆実験反対の誓いを新たにした。久保山すずさんは缶詰工場で生活と闘っている。遺児たちも大きく成長した。被爆者の大石さんはクリーニング屋に、御崎さんは豆腐屋にそれぞれ転業。この人たちにようやく明るい生活が蘇って来た今、原水爆実験は繰り返したくないものである。

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毎日世界ニュース 427 災害地の子供たち 伊勢湾台風第三報

学校が始まるのはいつだろうか?子供たちの学校は泥水につかったまま半月たった。先生たちが膝までつかる泥水の中を連絡にやって来た。校舎から水が引くまで集団疎開するためだ。わずか1時間の干潮時をぬって疎開のバスがやって来た。心配そうなお母さんたち、注意したいことは山と有っても、潮の満ちぬ間に慌ただしく出発しなければならない。集団疎開する子供たちも愛知県だけで6千名に達し、疎開先の学校では新しい友だちが手を振って迎えてくれた。半月ぶりの入浴、長い緊張もほぐれて、ぐったり寝込む子供たちの顔には安堵の色が浮かんでいる。毎年今頃は運動会のシーズン。褒美はリボンだけにして賞品は全部災害地へ送る東京の友だち。遠く三重県伊勢市に疎開した長島町の子供たちにも温かいプレゼントが届いた。まだ机も無い畳敷きの仮教室だが、心の籠った理容学校生徒の無料奉仕などによって、子供たちは日一日と生気を取り戻して来た。一方、高潮の生々しい爪跡をさらす半田市海岸の堤防の決壊個所も、地元高校生らの協力でようやく仮締切工事が始まった。名古屋市の庄内川でも2千人の高校生が動員されて急ピッチの締切作業。1959年10月9日、庄内川はついにその傷跡を閉じた。全国から動員された排水ポンプが、一斉にうなりをあげて復旧への希望がほとばしり始めた。疎開先の学校でも1959年10月12日、新しく迎えた生徒と一緒に16日ぶりに授業が再開された。しかし子供たちからはあの日の悪夢の思いは去らない。今日も校庭で無邪気に遊ぶ子供たちから、あのいまわしい思い出が拭い去られるのはいつの日のことだろうか。


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毎日世界ニュース 418 波紋投げた原爆記念日

東京から、新潟から、そして、南の果て与論島から始った1000万人の平和行進は、1959年8月4日、目的地の広島に到着した。3コースの団長たちは真っ黒に日焼けした顔で、感激の握手を交わした。一方、全日本学生自治会総連合の学生たちも続々と到着。安保条約改定反対を掲げて世界大会に参加した。こちらは大会に背を向けた右翼の連中。ニセの平和大会をぶっ潰せと原水爆禁止日本協議会の安井郁理事長にねじ込んだ。また、ソビエト代表にも「帰れ帰れ」と食ってかかる狼藉ぶりで、折角の世界大会も、とんだ邪魔が入った。一方ではイギリスや西ドイツ代表が、核武装反対で西ヨーロッパだけを非難すると、大会に不満を抱いて脱退するなど思わぬシコリを残した。こうした中で迎えた1959年8月6日、新たに187名の死亡者を加えた原爆慰霊碑の前に、2人の遺児が花輪を捧げ、悲しみも新たに3万人の参加者は深く頭を垂れて犠牲者の冥福を祈った。この時、頭上を旋回する飛行機から、またも心ない右翼の宣伝ビラ「ニセの大会にだまされるな」が撒き散らされた。しかし広場にはこの雑音もよそに、深い悲しみと平和への祈りが静かに流れていた。右翼の連中もさすがに気がとがめるのか、警官に後を付けられながら神妙に黙祷を捧げた。こうして色々と波紋を投げた原水爆禁止世界大会も、1959年8月7日、安井理事長が読み上げるヒロシマアピールを最後にその幕を閉じたが、年毎に派手になって来た世界大会の陰には、被爆者の切々たる訴えも聞かれる。そして8月9日、原爆第2号の地長崎でも平和への祈りが捧げられた。これが14年目を迎えた広島と長崎の原爆記念日の表情であった。


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毎日世界ニュース 429 スポーツの秋なれど

野球ファン待望の1959年プロ野球日本選手権シリーズ、南海対巨人の第1戦が10月24日大阪球場で行なわれた。南海は1回裏ランナー2、3塁のチャンス。巨人の投手は義原武敏、杉山光平打ってセカンドゴロ、土屋正孝のバックホームが遅れ、3塁から森下正夫がホームインして先制の1点をあげた。この回南海は野村克也のヒットなどで3点を追加。義原投手に代わって、今シーズン301勝の日本タイ記録をたてた別所毅彦投手が登場したが、寺田陽介がライト前にヒットして、この回一挙5点をあげた。試合は最終回。ランナーを2、3塁において巨人の反撃、南海の投手祓川正敏から土屋が左中間に大2塁打して2者ホームイン。続いて長嶋茂雄もレフトに2塁打してこの回4点を返し、3点差まで追いあげたが、結局10対7で南海が1勝をあげた。一方、26都府県の議員さんの野球大会の接待に、200万円におよぶ血税を使った東京都の税金の行方が問題となっている。東京のある高校では聖火リレーで始まる運動会で、若人の意気を天高く燃やそうという趣向。1959年10月25日、不人気を伝えられた第14回秋の国民体育大会は、小中高校生まで動員して、どうにか国立競技場を埋めて開会式が行なわれた。全国から16000名にのぼる選手が参加して、華やかな入場行進。水害のため愛知、三重、岐阜3県は欠場し役員だけが行進。続いて聖火が入場して大会気分は最高潮。ともかくも開会式だけは盛り立てようと、夕暮れまで数々の祭典の行事が繰り広げられた。翌26日から6日間にわたって競技が行なわれたが、開会式とうって変わりスタンドはがら空き。この立派な競技場に、5年後は東京オリンピック大会を迎えようとしている折りからこの有様では、日本のスポーツ界の先が思いやられる。


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毎日世界ニュース 434 国会デモ乱入事件

ベトナム賠償をめぐって社会党が激しく政府を追求する1959年11月25日の衆議院外務委員会。自民党が質疑打ち切りを強行したため委員会は混乱、社会党の委員は一斉に退場してしまった。夜も白々と明ける頃、社会党欠席のまま採決に入り、問題のベトナム賠償は本会議に送られ27日早朝ついに衆議院を通過した。その日の午後の国会前は、安保改定阻止を叫んで日本労働組合総評議会(総評)、全日本学生自治会総連合(全学連)のデモ隊2万7千人が押しかけ、人と旗の波で埋まった。右翼も飛び出して、第8次統一行動日は初めから荒れ模様。請願デモの波は続々と正門に殺到、警官隊と揉み合いが続き、双方の負傷者は300人以上に達した。やがて陳情団の代表が国会議員の先導で中に入った。ところがその後から全学連を先頭に、デモ隊がなだれを打って国会構内に乱入、ジグザグデモを繰り返した。浅沼稲次郎書記長の説得も若い学生たちの耳に入らない。こうしてデモ隊が1時間あまりも国会を占拠するという国会史上空前の不祥事となった。この事件の先頭に立って独走した全学連は、検束者を返せと警視庁に押しかけたが、またも検束者を出す結果となった。全学連本部は書類を焼き捨て、東大自治会も門を閉ざし、バリケードを築き、手入れに備えて泊り込みの非常体制だ。波乱の一夜が明けた国会、二度と汚したくない民主主義の殿堂である。


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