テレビ・ラジオで放送された番組・CM4万本以上を視聴できるほか、展示やイベントを通じて放送の今と昔を学べます。 入館無料

tv
テレビ番組

戦後70年 平和の誓い未来へ ~長岡・ホノルル平和交流の軌跡~

番組ID
210336
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
放送日時
2015年12月26日(土)15:00~16:00
時間(分)
55
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
放送局
NST新潟総合テレビ
製作者
NST新潟総合テレビ
制作社
NST新潟総合テレビ、コム
出演者
語り:平原綾香、ナレーター:横内美紗
スタッフ
撮影:長谷川隆之、撮影:尾田博、MA:渡辺誠、ディレクター:渡辺一弘、演出:星貴、プロデューサー:鈴木秀喜
概要
姉妹都市である新潟県長岡市と米国ハワイ州ホノルル市。太平洋戦争の際、真珠湾攻撃と長岡空襲という大きな戦禍を体験した両市は、次世代に戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えるため、交流の絆を深めてきた。そして終戦から70年目の2015年8月、両市はアメリカ海軍の協力のもと、日米開戦の舞台・真珠湾で鎮魂の長岡花火を打ち上げ、フォード島で開催した平和友好式典で、未来への平和を誓う「平和サミット宣言」を高らかに読み上げた。また平和交流事業の一環として、長岡市の中学生15人とホノルル市の中高生8人が互いの市を訪問。彼らは戦争の歴史を学び、平和とは何か、未来の平和のために若い世代に何ができるのかを真剣に考え、意見交換した。番組では、青少年の交流の様子と、平和へのメッセージを世界に発信する両市の交流の軌跡を伝える。

同じ年代の公開番組

ひろしま百景 ~被爆70年・奇跡の街~ 人々に情報を “Infomation for People” (英語字幕版)

原爆投下から70年。広島に残されている歴史資料(写真・被爆手記・被爆絵画)や当時の映像資料を使いながら、奇跡の街の復旧・復興を紹介するミニ番組シリーズ。未曾有の惨禍と恐怖の中、我々の想像をはるかに超える力を発揮した人々の姿を伝える。◆爆心地から約1kmにあった広島中央放送局(当時・上流川町)は、猛烈な爆風と火災で壊滅した。放送機能は完全に停止し、広島の声は途絶えた。しかし、市内から約5km北にあった祇園町の原放送所は無事だった。。「この惨状をすぐに伝えなければ」と6日夕刻には、傷ついた14名の放送・技術部員が次々と到着、原放送所の臨時放送機器の復旧に取り掛かった。「電波は出ているか、電波を出せ、放送を続けよ」(旧広島中央放送局放送部・間嶋輝夫副部長)。翌7日午前9時には放送を再開。第一声は、不安に届ける「県知事の治安に関する告諭」だった。NHK祇園放送所(当時・原放送所)は今もラジオ放送所が電波を発信し続けている。(英語字幕版)


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
テレメンタリー2015 水害の町への遺言

山形県の北東部を流れる全国でも有数のアユ釣りの名所「最上小国川」。流域の温泉街は度重なる水害に悩まされてきた。そこにダム建設計画が持ち上がる。しかも国内では実績の少ない流水型ダム、いわゆる「穴あきダム」だ。治水専用で環境に優しい新型ダムとして各地で建設が検討されている。これに対し、漁業権を持つ地元の小国川漁協は一貫して建設反対を訴え続けてきた。沼沢勝善組合長は古里の清流を守るため、そして、アユの生態を守るため、先頭に立って山形県との交渉にあたってきた。◆山形県は「穴あきダムは環境への影響が少なく、他の治水対策では川底を流れる源泉に影響が出てしまう」として計画断行の構えを崩さない。一方、ダム反対派の有識者らは「現代の土木技術なら河川改修での治水は可能。そもそも穴あきダムは国内での実績が少ないのに、なぜ環境に優しいと言えるのか」と対決姿勢を崩すことはなかった。◆しかし、10年に一度の漁業権の更新時期を前に、状況は一変する。山形県が「公益への配慮」を更新の条件に追加したからだ。この対応に追われた沼沢組合長はその後自殺する。さらに、施設整備の資金不足や後継者問題に苦しむ漁協に対し、山形県は相次いで支援策を打ち出していく。折しも、全国的に豪雨災害が発生する中、しだいに漁協はダム容認に傾いていった。将来への展望もないままに…。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
NNNドキュメント’15 3・11大震災シリーズ59 震災の棘 津波に消えたわが子

宮城県名取市閖上地区で東日本大震災の語り部として活動する丹野祐子さん。丹野さんを突き動かすのはあの日の後悔だ。長男の公太くん(当時13歳)と義理の父母の家族3人を亡くした。地震の後、丹野さんは公太くんと一緒に自宅近くの公民館グラウンドに避難していた。そこに襲った津波。近くにいながら言えなかった「逃げなさい」の一言。あの日の後悔、悲しみは“震災の棘”として、心の奥底に深く突き刺さったままだ。◆震災から3年半、現地再建での復興まちづくりが始まろうとしていた。本来、喜ぶべきはずの復興なのに揺れ動く心。丹野さんは語り部を続けるか迷っていた。まちが生まれ変わることは、公太くんとの思い出が消えることを意味する。息子への思いが変わらずに語り継げるのか…。その答えを探していた時、丹野さんが訪れたのは遠く離れた沖縄の地。70年前の沖縄戦の悲劇を語り継ぐ「元ひめゆり学徒隊」の女性との交流を通して、震災の語り部として生きていく覚悟を決めた。◆2014年12月、かさ上げ工事に伴い、丹野さんの自宅跡が無くなった。次に起こる震災の前に、津波の悲劇を語り続けたい…。丹野さんは震災の風化を防ごうと、公太くんが生きた故郷・閖上地区に戻る決断をした。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
日本!食紀行 日本一小さなワイナリー! 自給自足シェフの挑戦

青森県弘前市にあるイタリア料理店「オステリア エノテカ ダ・サスィーノ」。オーナーシェフの笹森通彰さんの一日は、自宅の隣にある農園の収穫作業から始まる。ハーブだけでおよそ10種類。他にもレタス、コールラビ、ズッキーニなど、たくさんの野菜を育てている。料理に使う卵は全て農園で育てている烏骨鶏のもの。笹森さんは幼い頃から、実家で飼っていた烏骨鶏の卵を食べて育ったと言う。笹森さんにとって農業は常に身近にあったものだ。◆笹森さんは7年前、100本の葡萄の木を植え、ワイン造りに挑戦し始めた。その理由は、自家製の生ハムやチーズに合わせるワインを作りたいから。「自家製」にこだわるからこそ、自然に辿り着いた目標だった。2013年の葡萄は、天候の影響で最悪の出来。それでも笹森さんは諦めない。2014年、自宅から歩いて5分ほどの所に新たに1ヘクタールの畑を購入し、900本の苗木を植えた。収穫できるのは早くても3年後。笹森さんは夢に向かって邁進する。◆そして2014年の秋、自宅そばの葡萄畑は収穫期を迎える。果たしてその出来は…。18か月間に渡る長期取材で自給自足100%を目指す笹森さんに密着し、目指す未来に学ぶ。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組