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テレビ番組

HBC報道スペシャル 老いの漂流 ~600万人の孤独~

番組ID
210146
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放送日時
2015年10月19日(月)01:56~02:51
時間(分)
49
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
放送局
北海道放送(HBC)
製作者
北海道放送(HBC)
制作社
北海道放送(HBC)、HBCフレックス
出演者
ナレーター:村井裕子
スタッフ
撮影:岩崎光二、撮影:三浦康典、撮影:寺谷裕之、音声:志田和音、編集:八尾真理子、EED:白木秀和、音響効果:高橋伸哉、ディレクター:小林太一、構成:渡辺圭一、プロデューサー:渡辺圭一、制作:眞鍋康志
概要
経済的に困窮する単身高齢者が急増している。徘徊中に保護された80代女性を通じ、行き場なき高齢者と超高齢社会の現実を見つめる。「600万人の孤独」(2015年5月放送)を再構成・追加取材した番組。◆有料老人ホームで暮らす85歳の女性。単身生活を送っていたが、他人の家に上がりこみ保護された。身寄りのない女性の部屋はゴミであふれ、施設入所を勧められていても拒んでいた。保護をきっかけに、市は「自立生活は困難」と判断。認知症も判明し、有料老人ホームでの生活が始まったが、利用料の値上がりで、年金と生活保護だけでの支払いは難しく費用の安い施設へと移ることになった。しかし、そこは自治体への届け出なしに運営されている、いわゆる「無届け老人ホーム」。国は高齢者の安全確保のため、有料老人ホームの運営者に自治体への届け出を求めているが、設置条件などを満たすにはコストがかかるため、無届けのままの施設が多い。単身高齢者は全国に600万人。その4割以上が、月の年金収入が10万円にも満たない。介護が必要になっても、頼る相手も経済的な余裕もない、低所得の高齢者が急増。外部の監視が届きにくいと問題視されながらも、費用の安さから無届け施設はいまや「超高齢社会」を支える存在になっている。

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