テレビ・ラジオで放送された番組・CM4万本以上を視聴できるほか、展示やイベントを通じて放送の今と昔を学べます。 入館無料

tv
テレビ番組

目撃!日本列島 僕らが人生を考える理由

番組ID
208137
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
放送日時
2010年07月17日(土)11:30~11:53
時間(分)
23
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
放送局
NHK
製作者
NHK
制作社
NHK、NHK函館
出演者
語り:河野多紀
スタッフ
撮影:藤島雅勝、撮影:安田幸弘、音声:外山賢史、音響効果:最上淳、編集:浮田浩治、ディレクター:川原愛子、制作統括:錦織直人
概要
北海道南部の八雲町。八雲養護学校には、筋肉が衰えていく進行性の病・筋ジストロフィーを患う25人の生徒が通っている。この学校では3年前から「いのちの授業」が始まった。難病の高校生たちが真剣に考え、話し合い、これからの人生の設計図を描いていく授業だ。身体が動かなくなっていく中、どう生きていけばいいのか、何が出来るのか。いのちの授業を受けた卒業生の中には、人工呼吸器をつけたまま大学に通い始めた先輩もいる。限られた人生を輝かそうと悩み、考える若者たちの姿を見つめる。

同じ年代の公開番組

NNNドキュメント’10 百合の贈りもの ~阪神大震災15年の軌跡~

兵庫県西宮市に住む中北富代さんは、15年前の阪神大震災で当時14歳の長女・百合さんを亡くした。木造家屋が倒壊し、百合さんは家族の中でただ一人犠牲になった。父親の幸さんは建築家。自らの職業ゆえ、娘の死を十字架として背負い、生きてきた。この15年、自然と共存できる家づくりを続けている。◆2009年1月17日、中北さんは震災14年目の朝を特別な思いで迎えた。娘が生きた14年、娘を失ってからの14年…。その節目の年を大切に生きたいと考え、難関を潜り抜け神戸市外国語大学に入学した。◆中北さんが中国語に関心をもったきっかけは、“二胡”という中国の伝統楽器との出会いにさかのぼる。震災直後、生きるのがつらいと感じたとき、二胡の音色に心から癒され涙が出た。中国語や二胡の練習を続ける中北さん。常に支えてきたのは、亡き娘・百合さんの存在だった。困難に直面しても、娘が「かあさん、がんばって」と励ましてくれているのは気がするのだという。◆震災で絶望の淵をさまよった中北さんが、15年間を歩き続けられたもうひとつの理由。それは百合さんにまつわる多くの人との絆だ。岡田章子さんは震災後に「子を亡くした母親の会」で出会った。岡田さんは病気で12歳の長男を亡くした。震災と病気…子を亡くした理由は違うが、共通するのは「もう二度とあの子たちに出会えないこと」だと痛みを分かち合う。◆震災の後、百合さんと「ともに」歩んできた15年の道のり。中北さんの生き方は、人生の困難に直面した後、どう生きるべきかという一つの“あり方”を教えてくれる。◆NNNドキュメント40年企画。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
刑事定年〔9〕 娘の婚約者

主人公・猪瀬直也は定年退職したばかりの元刑事。在職中は現場一筋、家庭を全く顧みなかった直也だが、定年後は再就職せず、妻との平穏な時間を大切にしたいと考えていた。しかし、実際に彼を待っていたのは思い描いていたような日々ではなかった。敏腕刑事の定年退職後に待ち受けていた生活とは?…彼はもう、刑事ではない。BS朝日開局10周年記念ドラマ。(2010年10月27日~12月29日放送、全10回)◆第9回「娘の婚約者」。ついに直也(柴田恭兵)の娘・真紀(田丸麻紀)が、婚約者を家に連れてくる日がやって来た。娘が選んだ男に会えるのを楽しみにしている妻・早季子(浅田美代子)とは対照的に、男が結婚相手として相応しいかどうかを見極めてやろうと神経質になっている直也。そこに現れた婚約者・高樹隆史(TETSUYA)は、言葉の遣い方もろくに知らないイマドキの若者で、甲斐性のないミュージシャン風情の男だった。もしかしたら結婚詐欺ではないかと多田野(金田明夫)から忠告された直也は、隆史の正体を見極めるために早季子と真紀を買い物に行かせ、ただ一人で隆史と対峙する。そこにヤクザの親分・大場(山田明郷)らも駆けつけて隆史の化けの皮をはがそうと質問攻めにするうち、ついに直也の怒りも頂点に達する。


recent_actorsドラマtvテレビ番組
沈まない「水没地区」 ~ダム計画に揺れる町~

政権交代で凍結された全国のダム事業。愛媛県の山鳥坂ダム事業は、住民が移転補償金額に合意し、用地買収の正式調印を目前に控えた中での突然の事業凍結だった。いわば用地買収が仮契約状態での事業凍結という、全国の凍結事業の中で、唯一のケースだ。◆1982年(昭和57)に予備調査が始まった山鳥坂ダム事業は、1992年(平成4)に地元旧肱川町がダム建設の受け入れを表明し、ダム計画は前進するはずだった。しかし長引く反対運動や与党からの事業中止勧告、計画見直しによる規模縮小などで足踏みが続き、水没地区住民は28年間、移転後の生活再建を待たされ続けた。◆水没地区に暮らすのは33世帯、約70人。平均年齢は75歳を超える過疎と高齢化がすすむ地区だ。ダム計画が出て以降は、水没地区はダムに沈むという理由で道路や水道などの施設に手は入れられず、置き去りにされたままである。◆そして2009年(平成21)9月にようやく補償金額が合意し、住民は移転後の新たな生活に向けて具体的に動き始めていた。ダムに沈まない土地に移転するために新しい家を買ったり、水没地にあるお墓を移転させたり、中には移転にかかる費用のローンが始まった人もいるという。しかし突然の事業凍結で支払われるはずの補償金が出ない事態に。◆国や民主党に要望を続ける自治会は、これまで生活再建を進めるためにダム建設推進を要望していたが、2010年になってダムの是非とは切り離して、生活再建の補償を優先して求める行動に出た。これ以上ダムの犠牲になって待たされる訳にはいかないのだ。ある住民は「もうダムはできなくてもいい」と口にする。28年間翻弄され続けた住民の叫びが聞こえてくる。(番組は2010年5月の状況を取材したものです)


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組