テレビ・ラジオで放送された番組・CM4万本以上を視聴できるほか、展示やイベントを通じて放送の今と昔を学べます。 入館無料

tv
テレビ番組

NNNドキュメント’15 命を運ぶ電車 ~JR脱線事故10年 遺族の執念~

番組ID
210473
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
放送日時
2015年04月27日(月)00:55~01:25
時間(分)
25
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
放送局
読売テレビ放送/讀賣テレビ放送(YTV)
製作者
読売テレビ放送/讀賣テレビ放送(YTV)
制作社
読売テレビ放送/讀賣テレビ放送(YTV)
出演者
ナレーション:牧野誠三
スタッフ
撮影:西川亮、撮影:大家広子、編集:苧玉和也、EED:中澤丈、音響効果:久保秀夫、MA:久保秀夫、ディレクター:堀川雅子、プロデューサー:阿部裕一
概要
2005年4月25日午前9時18分頃、兵庫県尼崎市でJR福知山線の車両がカーブで激しく脱線。乗客106人と運転士が死亡、負傷者560人以上の大惨事となった。◆兵庫県宝塚市の淺野弥三一さんは、あの朝、妻の陽子さんと次女の奈穂さんを自宅から送り出した。2人は、千葉の親族を見舞うため、弥三一さんの妹・ちづ子さんとともに新大阪駅に向かう途中に事故に巻き込まれた。2両目で瀕死の重傷を負った奈穂さんは奇跡的な回復を遂げたが、10年たった今も電車に乗ることができない。弥三一さんは、この10年、ひとつの決意をもって生きてきた。「あの事故を二度とではなく、絶対に起こしてはならない」。そのためには、JR自らが事故原因を分析し、安全体制を構築するしかないと考え、元社長らの刑事裁判には一切足を運ばず、「罰」を求める気持ちは脇に置き、JR西日本という組織に向き合い続けてきた。弥三一さんがJRにも参加を呼びかけて指針作りを目指した「安全フォローアップ会議」は2014年4月、ひとつの結論を導き出し、JRは今後「安全」の検査に外部の目を加えることとなった。◆「安全」を確かなものにするため、企業の犯罪を問う「組織罰」の創設を目指す遺族もいる。神戸市北区の大森重美さんは、長女の早織さんを亡くした。事故当時はゼネコン企業で人事研修を担当していた。組織の一員としての経験から、事故があっても企業を処罰できない「刑法」に疑問を抱くようになった。組織の責任体制を明確にすることが安全を確立する一つの手段だと考え、大森さんは2014年3月、「組織罰」の勉強会を有志で立ち上げた。◆JR西日本は、この10年の間に、約8000億円を「安全対策」に投じてきたという。しかし目に見えない「鉄道の安全」は、一瞬の気の緩みで崩れてしまうことを私たちは忘れてはならない。

同じ年代の公開番組

戦後70年報道特別番組 京都は守られたのか ~知られざる原爆投下計画を追う~

全国の都市の中で唯一、大きな戦禍をまぬかれた古都・京都。しかし、この京都に原爆を投下する計画があったことはあまり知られていない。“京都に空爆がなかったのは文化財を守るためだった…”。まことしやかに語られてきた古都の通説には、意外な裏側があった。広島・長崎だけではなかった“京都への原爆投下計画”とは、どのようなものだったのか。アメリカの機密文書や当時を知る人たちへの取材から明らかにする。◆1945年7月24日、滋賀県大津市の東レ工場に1発の爆弾が落とされた。その爆撃地点には、石碑はもちろん、なんら痕跡もない。まさに「忘れられた空爆」だ。空爆が少なかった大津に突如爆弾が落とされたのは、実は京都を想定した模擬原爆、つまり予行練習だったという。アメリカ軍の機密文書などには、原爆の投下目標を選定する委員会の記録が残っており、京都は広島と並んで第一目標になっていた。原爆は「広島・長崎」に投下されたが、実は京都への原爆投下計画は残っていた、というのだ。◆一方、京都への原爆投下計画が密かに進行する中、多くの文化財、国宝を抱える京都の寺社では、いつ襲い掛かるか分からない米国の空襲に備えて、様々な計画が秘密裏に進められていた。そのひとつが、醍醐寺に京都府下の国宝や美術品を疎開させる計画だ。なぜ京都府の社寺課は醍醐寺を選んだのか、そしてどのような防空防火対策を施していたのか。府や醍醐寺に伝わる文書や証言をもとに、当時の様子を描く。また西本願寺では、親鸞聖人木造を密かに奈良の山奥にある寺に疎開させていた。◆番組では、戦時下の知られざる“京都の実像”をつまびらかに浮き彫りにし、あの戦争で何が起き、京都の人たちはどのようにして町を守ろうとしていたのかを伝える。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
ひろしま百景 ~被爆70年・奇跡の街~ 声よ届け “Delivering my Voice” (英語字幕版)

原爆投下から70年。広島に残されている歴史資料(写真・被爆手記・被爆絵画)や当時の映像資料を使いながら、奇跡の街の復旧・復興を紹介するミニ番組シリーズ。未曾有の惨禍と恐怖の中、我々の想像をはるかに超える力を発揮した人々の姿を伝える。◆原爆投下で広島市内の通信手段は壊滅した。爆心地から約540mの場所ににあった広島中央電話局も通信設備は壊滅し、多くの局員が死亡重軽傷を負った(死亡216人・負傷243人)。広島城にあった中国軍管区司令部通信室も壊滅的打撃を受けたが、地下壕「通信室」の軍事専用電話は奇跡的に生きていた。通信室で交換台に勤務していた岡ヨシエさんは、警報伝達中に被爆(当時比治山高等女学校3年生で学徒動員)。意識が戻った時、目に映ったのは、瓦礫と化した広島の街だった。「そうだ、まだ通話できる所へ早く連絡を…」。九州・福山の司令部に被災第一報連絡「もしもし大変です…広島が新型爆弾にやられました。全滅に近い状態です」。局員は焼け残りケーブルの回収に奔走、8月13日には試験開通し、15日には14回線を復旧した。一日でも早い回線の復旧は、市民に「希望の声」を届ける最初の息吹となった。(英語字幕版)


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組