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テレビ番組

ひろしま百景 ~被爆70年・奇跡の街~ 人間の絆

番組ID
208899
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放送日時
2015年08月04日(火)22:54~23:00
時間(分)
3
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
放送局
テレビ新広島(TSS)
製作者
テレビ新広島(TSS)
制作社
テレビ新広島(TSS)、TSSプロダクション
出演者
スタッフ
プロデューサー:横井利行、ディレクター:清水正義、ディレクター:池田俊明、ディレクター:山下剛史、音響効果:広瀬康詞、カメラ:大原英二、編集:大原英二、企画:吉村美紀
概要
原爆投下から70年。広島に残されている歴史資料(写真・被爆手記・被爆絵画)や当時の映像資料を使いながら、奇跡の街の復旧・復興を紹介するミニ番組シリーズ。未曾有の惨禍と恐怖の中、我々の想像をはるかに超える力を発揮した人々の姿を伝える。◆原爆投下で、市中銀行(芸備・住友・安田・帝国・三和・興銀・勧銀・農中・商中・日本貯蓄・三菱・庶民金庫)は、壊滅状態となった。爆心地から約380mの近距離にあった日本銀行広島支店も、甚大な被害を受けたが、地下金庫は無事だった。「罹災市民のためにも、何とか早く営業しなければ…」。8日には、支店内を貸し店舗として12の銀行が共同で営業を再開。「常に預金者に不安を与えてはならぬ、早く処理してあげよ…」(当時日本銀行広島支店・吉川智慧丸支店長)。殆どが、通帳や印鑑がない者ばかりで、取り扱いは困難を極めたが、各銀行とも力を合わせて臨機応変にがんばった。銀行の再開は、市民の復旧意欲を沸き上がらせる最初のスタートとなった。

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原爆投下から70年。広島に残されている歴史資料(写真・被爆手記・被爆絵画)や当時の映像資料を使いながら、奇跡の街の復旧・復興を紹介するミニ番組シリーズ。未曾有の惨禍と恐怖の中、我々の想像をはるかに超える力を発揮した人々の姿を伝える。◆原爆投下で広島市内の通信手段は壊滅した。爆心地から約540mの場所ににあった広島中央電話局も通信設備は壊滅し、多くの局員が死亡重軽傷を負った(死亡216人・負傷243人)。広島城にあった中国軍管区司令部通信室も壊滅的打撃を受けたが、地下壕「通信室」の軍事専用電話は奇跡的に生きていた。通信室で交換台に勤務していた岡ヨシエさんは、警報伝達中に被爆(当時比治山高等女学校3年生で学徒動員)。意識が戻った時、目に映ったのは、瓦礫と化した広島の街だった。「そうだ、まだ通話できる所へ早く連絡を…」。九州・福山の司令部に被災第一報連絡「もしもし大変です…広島が新型爆弾にやられました。全滅に近い状態です」。局員は焼け残りケーブルの回収に奔走、8月13日には試験開通し、15日には14回線を復旧した。一日でも早い回線の復旧は、市民に「希望の声」を届ける最初の息吹となった。(英語字幕版)


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