テレビ・ラジオで放送された番組・CM4万本以上を視聴できるほか、展示やイベントを通じて放送の今と昔を学べます。 入館無料

tv
テレビ番組

NNNドキュメント’09 ダイスケみたいになる!! ~ちー君と車いすのヒーロー~

番組ID
204734
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
放送日時
2009年06月29日(月)01:20~01:50
時間(分)
26
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
directions_bike
スポーツ
放送局
テレビ信州(TSB)
製作者
テレビ信州(TSB)
制作社
テレビ信州(TSB)
出演者
上原大祐、ナレーター:玉川紗己子
スタッフ
撮影:位高茂、編集:位高茂、EED:垣下裕司、音声:富岡努、整音:駒路健一、音響効果:田口恭平、ディレクター:浅井みどり、プロデューサー:新見宏司
概要
スレッジと呼ばれるソリに乗り、両手にスティックを持って競技するアイススレッジホッケー。下半身が不自由な人のための障害者スポーツだ。トリノパラリンピックのアイススレッジホッケーで、日本人最多ゴールを決めた上原大祐さん。生まれつき両足が動かないが、小中高すべて普通学級で過ごした。いまは大手製薬会社に勤めながら、同じ障害を持つ子どもたちにスポーツの楽しさを教えている。上原さんのパワフルで笑いあふれる講演活動は反響を呼び、日本中から声がかかるようになった。小学2年生のちー君は、上原さんと同じ二分脊椎のため胸から下が動かない。だが上原さんとの出会いを機に、ちー君の心に大きな変化が表れはじめる。

同じ年代の公開番組

発見!人間力 “学びたい”を支えて…

不登校や引きこもりの子ども、障害などで勉強できなかった社会人らが、勉強をやり直そうと集まる高知市の自主夜間中学校。その全国唯一の“公設民営”夜間中学を設立し運営しているのは、鍼灸師の山下實さんだ。◆設立のきっかけは、脳性まひで就学免除となった女性の一言だった。「息子の宿題を見てあげたい。だから学校で勉強がしたい・・・」。その切実な願いを叶えたいと、山下さんは地元小学校の一部を借りて学校をスタートした。次第に、ネットでのいじめを受けた子どもらが心の居場所と学びの場を求めて入学してきた。その後は、行政やボランティア教員の助けを受けながら運営を続けている。◆山下さんは通ってくる生徒の心に寄り添う。「生徒と同じ目線で物事を考え、その考えを否定しない。生徒の背後にある苦しみや悩みを少しでも共有できるから」「夜間中学は自分らしくいられる、陽だまりのような場所」。これまでに延べ200人がこの学校を卒業した。◆山下さん自身がいじめにあい、学校で思うように学べなかった経験を持つ。だから学べない生徒の気持ち、悔しさが痛いほど分かるという。「この学校の生徒は全員我が子」と話す山下さんの努力と情熱、そして自ら学び、学ぶ楽しさを知ることで生きる力をつけていく生徒たちの姿を追う。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
テレメンタリー2009 45年目のハネムーン ~病室からタイへ… 覚悟の巡礼~

2009年6月、病院で点滴を受けるひとりの女性がいた。藤原佳子さん79歳、肝硬変で倒れて3年あまり。何度かこん睡状態に陥ったり、肝臓の腫瘍の除去手術も受けたりもした。点滴で命をつないでいるような状態だ。◆佳子さんは夫の元陸軍通訳・永瀬隆さんとともに、泰緬鉄道の犠牲者の慰霊とタイへの「恩返し」に取り組んできた。太平洋戦争中、日本軍がタイとビルマの間に建設した泰緬鉄道では、1万3千人の連合軍捕虜と数万人のアジア人労務者が過酷な労働と栄養不足、コレラや赤痢などの蔓延で死亡した。永瀬さんは終戦直後、連合軍の墓地捜索隊に同行を命じられ、鉄道沿線で遺骨の確認に従事した。また1946年に復員する際、タイ政府は12万人の日本兵全員に米と砂糖を支給してくれた。永瀬さんの活動はこの2つの経験が動機となっている。佳子さんは兄をビルマで亡くした。母から兄の慰霊を命じられていた佳子さんは、永瀬さんと共に戦争犠牲者の慰霊に生涯を捧げることを決意した。◆1964年に一般日本人の海外渡航が自由化されると、夫婦は直ちにタイへの巡礼に赴いた。これが2人にとってのハネムーンだった。翌年からはタイ人留学生を自宅に受け入れ始める。元捕虜との和解の再会計画を実現し、「クワイ河平和基金」を設立して看護学生に奨学金を贈るなどの活動を、二人三脚で続けてきた。◆2008年「最後の巡礼」を済ませた永瀬さんに、佳子さんは「どうしても」と再度のタイ訪問を望む。かばんには主治医が持たせてくれた点滴の処方と薬。入院先の病院を抜け出して、135回目の「ハネムーン」が始まった。2人は「45年目のハネムーン」を無事終えて、大願を成就することができるのだろうか。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
映像’09 DNA鑑定の呪縛

2009年5月8日、1990年に栃木県足利市で起こった女児誘拐・殺害事件、いわゆる「足利事件」をめぐり、殺人罪などで無期懲役が確定している菅家利和さんが裁判のやり直しを求めた再審請求の即時抗告審で、DNAの再鑑定の結果、DNA型が一致しなかったことが明らかとなった。これにより、菅家さんの再審が開始される可能性が高くなった。◆足利事件は、1990年5月、栃木県足利市で4歳の女の子が誘拐・殺害された事件で、1年7ヵ月後、いわゆるローラー作戦で菅家さんが逮捕された。決め手になったのは、女児の着衣に付着していた体液のDNA鑑定だった。同様のDNA鑑定が決め手になった事件に、1992年2月、福岡県飯塚市で小学1年生の女の子2人が誘拐され、殺害された「飯塚事件」がある。この事件でもDNA鑑定が決め手となり、2年7ヵ月後に1人の男性が逮捕された。両事件ともに、無実を訴えて最高裁まで争ったものの、「足利事件」の菅家さんは無期懲役、「飯塚事件」の久間三千年さんは死刑判決となった。その後、2人は獄中からも無実を訴え続けた。しかし、2008年10月28日、「飯塚事件」の久間さんは福岡拘置所で死刑を執行された。◆DNA型鑑定とは、細胞核の中の染色体にあるDNA(デオキシリボ核酸)を構成している4種類の塩基(アデニン、グアニン、チミン、シトシン)の配列の特徴によって、個人を分類ないし識別するものである。日本の警察によるDNA型鑑定は、警察庁科学警察研究所(科警研)が1989年に導入した。しかし、この鑑定法には実は重大な欠陥があった。◆DNA鑑定という言葉が始めて登場したとき、ある新聞は「100万人から1人を識別する」と書いたほどだった。現在の鑑定技術なら、大げさな表現とは言えないが、当時の鑑定の精度からはとてもありえないことだ。しかし、DNA鑑定は過大に評価され、検察官、裁判官、時には弁護士ですらもその言葉の呪縛から逃れられなかった。そんななかで、冤罪を叫ぶ死刑囚の死刑が執行された。今、遺族と弁護団は「無辜の人間を国家が殺害した」と、死後の再審請求の準備を始めた。亡くなった久間さんの名誉を回復するために。◆番組では、犯人特定の証拠として有効視されてきた導入当時のDNA型鑑定法の欠陥をわかりやすく解説し、2つの事件から冤罪の構図に迫ってゆく。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組