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テレビ番組

テレメンタリー2011 “3.11”を忘れない7 走れ!三鉄

番組ID
206307
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放送日時
2011年08月07日(日)02:00~02:30
時間(分)
26
ジャンル
cinematic_blur
ドキュメンタリー
ondemand_video
報道・時事
放送局
北海道テレビ放送(HTB)
製作者
北海道テレビ放送(HTB)
制作社
北海道テレビ放送(HTB)
出演者
ナレーター:桑島法子
スタッフ
撮影:図司祐介、音声:永井孝典、編集:角田朋美、EED:庄司好孝、音響効果:宮田友紀子、MA:酒巻良明、MA:沢里憲壮、タイトル:浜田次朗、ディレクター:金子陽、プロデューサー:数浜照吾
概要
2011年3月11日。岩手県の三陸鉄道は大津波に飲み込まれ、駅舎は跡形もなくなり、高架橋や線路はずたずたに寸断された。住民から“三鉄(さんてつ)”と親しみを込めて呼ばれる三陸鉄道。入り組んだ沿岸部を走る三鉄は、震災からわずか5日後に“復興支援列車”として一部の区間で運転を再開した。「三鉄が動いていれば、いつもの生活ができているという気持ちになってもらえるのでは…」運転士は祈るような気持ちで語った。◆通学、通院、買い物…。三鉄は赤字を抱えながらも、地域の足として走り続けてきた。1984年の開業以来、三鉄を利用してきた漁師は、村中の人たちが集まって一番列車に旗を振ったあの日のように、三鉄が復活する日を心待ちにしている。津波で大切なものを奪われた人たちにとって、三鉄は一筋の光なのだ。◆赤字ローカル線の三鉄は、国の支援がなければ全線を復旧させることは不可能だ。それでも三鉄は瓦礫のまちを走り出した。地域住民の希望を乗せ、“復興への鉄路”となることを信じて。

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オーストラリアの田舎町カウラに日本から一人の中学生が留学してきた。彼が大好きなのは野球だが、学校には野球をする生徒はそれまで一人もいなかった。しかし、65年以上前、この地に野球が花開いた時期があった。◆太平洋戦争中、この町には捕虜収容所が設置され、最大で1100人の日本人捕虜が収容されていた。彼らの大きな楽しみが野球だった。バットやグローブは材木を削ったり、支給された革靴をほどいたりして手作りした。オーストラリア側の捕虜の扱いはジュネーブ条約にのっとった良好なものだった。ラインを引く石灰の代わりにメリケン粉を使ったり、魚を要求すればニュージーランドから空輸されたりもした。捕虜の間には生きる喜びが芽生えていた。◆だが、安楽な日々は突然終わりを告げる。1944年8月5日、日本人捕虜が集団脱走。ある者は機関銃に撃たれ、ある者は自ら首を吊って234人が死亡した。きっかけは些細なことだった。捕虜が増えて収容所が手狭になったため、オーストラリア側が捕虜を兵と下士官に分離することを通告したのだ。捕虜であることの屈辱を晴らす機会をうかがっていた一部の強硬派の捕虜が決起を主張する。穏健派は全員による投票を提案するが、投票の際、捕虜を動かしたのは、暴動に反対とは主張しにくい「空気」だった。◆捕虜の中でひときわ目立つ存在だった人物がいる。長くキャンプリーダーを務め、暴動の開始を告げる突撃ラッパを吹いた「南忠男」だ。事件で死亡した南は偽名だったため、長く本名や出身地は謎のままだった。しかし日豪の研究者などの調査で、1980年代になって香川県出身の海軍パイロットとわかった。彼はダーウィン空襲で被弾し、奇跡的に不時着してオーストラリアにおける日本人捕虜の第1号となっていたのだ。◆彼の墓の命日は、カウラ事件ではなく、1回目のダーウィン空襲が行われた1942年2月のままである。その他、多くの捕虜が帰国してみると戦死したことにされていた。カウラ市内の日本人墓地に眠る人の中にも、本当の命日を遺族が知らない人が他にもたくさんいるはずだ。


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