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テレビ番組

われらの主役 不世出の大打者 王貞治

番組ID
001252
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放送日時
1976年11月03日(水)10:00~11:00
時間(分)
51
ジャンル
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スポーツ
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ドキュメンタリー
放送局
テレビ東京
製作者
テレビ東京
制作社
テレビ東京
出演者
スタッフ
音楽:伊福部昭、音楽:黛敏郎、テーマ音楽:ザ・ベンチャーズ、タイトル:矢萩春恵、撮影:服部誠一、編集:田口為一、美術:安達久男、音声:服部洋一、効果:佐藤日出男、効果:大柴恵一郎、照明:島田十九八、担当:福島一雄、担当:江津兵太、担当:犬飼佳香、プロデューサー:遠藤慎介、プロデューサー:平山登、監督:熊井啓
概要
王仕福さんは中国浙江省に生まれ、日本へ渡り日本人・登美さんと結婚した。中華料理店「五十番」を営みながら長男・鉄城を医師に、次男・貞治を技師にして中国へ帰ろうと思っていた。しかし貞治は野球選手として大成し、名門・巨人軍の4番打者となる。そしてベーブ・ルースを超える通算715号の本塁打を打ち、やがてハンク・アーロンの記録に追いつく日も近い。仕福さんは登美さんとともに後楽園球場へ足を運び、息子・王貞治選手の活躍を毎夜見守る。
受賞歴
テレビ大賞(第9回テレビ大賞優秀番組賞)

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白い栄光 ~あるスキージャンパーの青春~

札幌オリンピックのスキージャンプ競技の金メダリスト、笠谷幸生。笠谷の幼少時代からこれまでの功績やオフシーズンに洋酒メーカーの営業として働く姿、最後のオリンピックへ向けたトレーニング、そして引退への心境を描く。◆笠谷は北海道余市郡出身。8歳上の兄のスキージャンプを小さいころから見続けていた。その環境が笠谷をスキージャンプへと自然に導いていった。高校スキーの名門である余市高校に入学後、海外遠征にも出て行くようになり、1963(昭和38年)の全日本選手権で2位という成績を残す。1位は同時期全盛期を迎えていた日本初の100mジャンパーである菊地定夫選手。笠谷も菊地と並び日本を代表する選手となっていった。笠谷が初めてオリンピックに出場したのは、1964年オーストリアで開かれたインスブルック五輪。この大会で日本選手として最良の成績を残す。その後の世界の大会でも好成績を残し、世界の一流ジャンパーとなった笠谷は1972年の札幌五輪に向けて期待を集めて行った。そして札幌五輪で金メダルを獲得し、「日の丸飛行隊」と呼ばれることとなる。その後1976年のインスブルック五輪を最後に引退する。◆放送番組センター協賛番組


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